昭和五十四年六月十七日
朝の御理解
御理解第四節「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世にでたのである。
神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神助けてくれといえば、おかげを授けてやる。」
恩人としての金光大神、お道の信心を頂いて、天地金乃神様からも「教祖金光大神様は、恩人」と言われておられると同時に、私共からも「大恩人」としての頂き方が出来るようになるまで、「一つおかげを受けなきや、いけない」と言うことです。
金光大神の、ご信心によって、天地金乃神様の限りないご恩恵によくすることが出来るようになり、「ご恩恵をご恩恵として、日々神恩報謝の生活が出来ておる」ということは、もう、これにまさるおかげはない。しかもそれが、「あの世にも持って行かれ、この世にも残しておける」という程しのものを受け、教えて頂き、それを「頂かせて貰っておる」ということほど、ありがたいことはない。そこまで頂き、そこまでわからなければ「金光大神を本当の恩人」として、頂くことはできないと思う。ただ、「ない命を助けて頂いた、どうにも出来ないところを、フシギなフシギなおくり合わせを頂いて、助けて頂いた」と、その断片的に頂くおかげは、です。フシギに、力になって、いよいよの時に出てこないのです。
そりゃあ、「あなたのおかげで」と、こう、対人間の場合でも、いろいろお世話になつたり、特別のご配慮を頂きますと、そう言いますよね。「あなたのおかげで」と「あっおかげで助かりました」と、こう言うけれどもね、それが「本当の助かり」という事を自分が実感するということは、今申します「教祖金光大神のご信心によつて天地金乃神様のご恩恵に浴することが出来る。」しかも「日々限りなく頂いていけておる」ということのこの事実をふんまえて初めて「今日もおかげを頂いて有り難い」ということになり、そして、また「神様にすがらずにおられん願わずにはおられない」と信心が続けられていく。しかも、それが限りなく「子にも孫にも伝わって、いや、残しておけれる程しのものを伝えておく」。ですから、私は、どうでもね、金光様のご信心を頂いてね、ご神徳を頂いて、天地のご恩恵をご恩恵と実感できる。
昨日、原さんのところの恒例の謝恩祭のおかげを頂きましたんですけども、まあ、あちらで話したことでしたけど「原さんのお宅位合樂教会で一番理想的な信心を頂いておられる家庭はなかろう。」と言って話したことでした。一家をあげて朝参りが出来る程しのおかげ、ね。別に「あちらは商売大繁昌しござる」とか「家が立派になった」とか、と言うようなことではないけれども、もう、日に日にの生活のなかに、ね、まず家族中の者が健康であるということ。そりゃ、問題がないぢゃないけれども、御神意のまにまに家族中の者が動かして頂いておられること。だけではない、その信心が、もう親戚中に広まつておるということ。原さん一家の親戚だけではなくて、あちらの、おばあちゃんの親戚まで信心が伝わる。あちらの、昌一郎さんの奥さんである良子さんの里の方にまで今、及ぼそうとしておる。そういうところは珍しい。しかも、一家一門から「お道の教師にお取り立てて頂いておる」と言うような、も、どことどう言って「金光様のご信心ぶり」と言うか、「金光様のご信心の理想的な」と、言うなら「こういうふうなおかげを受けておる」。しかも、それが「いよいよ育っていく」ということが「金光様のご信者でございます」と言って、誰はばかることなく言えれるようなおかげを頂く時であろう、と、ね。
ところがです、それ程しのおかげを頂きながら、言うならばですね、電気もついとる、水道もついとる、ガスもついとる、もう冷暖房もついとる。もうそれこそ、暑い時でも涼しい思いが出来れるような、寒い時には暖かい思いが出来るような、ね。ちょっとひねれば水が出り、ちょっとひねれば火が出る、ね。ちょっと、スイッチ一つおせば部屋中が明るうなると言ったような施設が、もう出来てしまっておるという感じ、にもかかわらずです。例えば、んならね、七輪をあおいでバタバタしておる、火をおこしておったりね、ひねれば水道が出る程しのおかげを頂いておりながら、まだポンプでガッチャンガッチャン汲んでおるようなね、これはスイッチを押したけど電気がつかん、どこが、これは、という。どうか、その辺のところがおかしい、と言うのが今の原さんのところの一家の状態ぢゃないじゃろうかね。というお話でした。ね。だからその、いうならば、人間の幸せの条件のすべて、暑い時、暑い思いをせんですむ程しの、ね。ま、言うならば、普通に言うならば「腹の立つような問題があっても、腹をたてんですむような」と、いう意味なんです。
人間がままになっていく、幸せになっていくことのためには、火がいり、水がいるけれども、それを、例えば、スイッチ一つで、ボタン一つで頂けれる程しのお徳が、もう、ここまで来ておるのに、それを使い得てない、というところにです。これからの原さんところの信心があるんだ、というわけです。ね。もうあちらが、ご信心を頂かれるようになって何十年でしょうかね。もう二十年にもなりましょうか、ね。
それこそ、ない命を頂いたり、開けんはずのものが、いつの場合であつても、その時その時になつてくると、必要なものが必要に頂けれるようなおかげを頂いてきて、何十年、過去の事を振り返ってみても、「そげんバタバタせんでよかぞ、ここで、こげな心配せんでんよいぞ、とにかく不平どん、不足どん言うことではないぞ」という程しのものを頂いておるけれども「不平があり不足がありバタバタせんならん」と、いうところにです、ね。
結局、言うならば、「生神金光大神様のご信心のおかげで、天地金乃神様のかぎりないおかげに浴することが出来るおかげを頂いておる」ということは、「ナントありがたい事であるか」という「そこのところの把握が出来てないからだ」と、いうことになるのですね。只、日々を、今日も合楽理念の実験者、そして実証者としての、あそこの場合は、家庭としてその実があがっていくようなおかげ頂けられた時にです、初めて私は、「金光大神の恩がわかった時である」というふうに思うのです。ね。
もう、ここになった時に信心は、所謂、微動だもせんことになってくるのぢゃないでしょうか。
「神からも氏子からも相手からも恩人」、神様は確かに恩人、と教祖金光大神は思っておられる。なら、信奉者の私共がです、ただ目先目先のお取次を頂いて、おかげを頂いておる。という程度の事が「金光大神お取次のおかげで、金光大神ご出現のおかげで、こういう幸せをうるようになった。」と、いうことだけではなくて、もっともっと深い、言うならば、根本的なところに、わからせて頂きふれさせていただき、そして「限りないおかげ。」「心配せんでもおかげが頂ける。」ね。「バタバタせんでもよかがの。ここは腹立てるだんではなかばい。お礼申しあげんならんことよ。」と、言うような、私は、「おかげを頂いた時に初めて『神光大神を大恩人』として頂くことができる事になるのぢゃないか」と、いうふうに思います。
だから、まず、そういうおかげを頂かなければいけませんね。これは、私が、毎朝のご祈念の中に、それを、今のセリフ、と、言うかね。言葉です。
教祖生神金光大神様のご信心によって、天地金乃神様のかぎりないおかげに浴することが出来るようになって「ありがたい、お礼の申しあげようもない程しに有難い。信心も出来んのに、神様は、かばいにかばい、おかげを下さって有難い。」ね。
これが、本当に心から唱えられる時に、初めて「金光大神が恩人」と、いうことになるのぢゃないのでしょうか。
いや、私は、金光様の信者ですから金光様にお願いをして、「あれもおかげいただいた、これもおかげいただいた。」と、言うのではなくて、ね。言うならば、本当に「天地金乃神様の限りないおかげに浴することが日々出来ておる。」という、その実感が出来た時に、ね。そういうお礼が、神様の前に本当に出来た時に、所謂、金光大神をいよいよ大恩人として頂くことができるのぢゃないか。
そういう限りないおかげの頂けれる、言うならば「信心こそ金光大神の信心によって、お徳を受けた人であり家庭である。」と言うことになるのぢゃないでしょうか。
それが「あの世にも持っていけれるのだ。この世にも、また残しておけれるのだ。」という確信も、いよいよ出来てくる時ではなかろうか。そういうものを頂いて初めて「金光大神が、ね、私共の大恩人である。」ということになるのです。
例えば、今、私が申しましたような、一つの小型的な願いとか祈りを、皆さんもやっぱ持っておられると思うのですよ。ね。それを端的に申しますと、ここでは「親先生のおかげで」と、こう皆さんが言っておられる、ね。
「おかげで今日も、おかげを頂いております。」と、こういう。ね。けども、そんならその、親先生が本当に皆さんの大恩人として頂けるところまでのおかげを、頂かなければならない。私は、ここでは「親先生」ということは「大坪総一郎」ということぢゃないかとおもう。ね。
それはそのまま「生神金光大神」けども「親先生」と言った方が実感だし、ね。それこそマツトグロスソのご信者さん方ぢゃないけれども、「親先生」「親神様」で、ま、それこそ奇跡的なおかげが続いておるというようにです。ね。一番身近だから、それが本当に大恩人である。「もう、親先生のためなら命もおしくない」と、いう程しにおかげを頂いておってもね、何かの調子にアラッというまに信心が中絶したりしておる人が過去においてございます。
いかに、その、限りないおかげにつながっていなかったか。ということが言えるでしょう。
断片的に「それこそ命を頂いた。」といったようなおかげを頂いておってもそうなんです。ね。
だからどうでも一つ、ね。金光大神のご信心によって、天地金乃神様のおかげを受けられるようになり、そのご恩恵に限りなく浴していけれる、という程しの信心をわからせてもらい「おかげを頂かせてもらっておる」ということが「有難い」と、いうことになったら、これはもう動きようがない。ね。そこまでのおかげを頂いて、天地金乃神様が仰っておられるように「氏子からもの恩人ぢゃ」と仰る恩人とは、そこまで頂きつめた時だというふうに思います。「どうぞ」